私たちが知っている身の回りにある物質は、すべて原子や分子などのミクロな要素から構成されています。例えばコップ一杯の水は、約個という膨大な数の水分子が集まってできています。このように、私達の身近にあるマクロな世界の物質は、実はミクロな世界の要素から構成されています。
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遥か昔から、自然現象を理解するために原子や分子あるいはさらに小さな素粒子など、ミクロな世界での物質の構成要素の存在や構造が探求され、明らかにされてきました。しかしそれだけでは、原子が集まって構成されている水がなぜ温度によって水蒸気・水・氷と形を変えるのか、なぜ水はネバネバしておらずサラサラと流れていくのかなど、原子が多量に集まって構成される物質の性質や現象について理解することは困難です。(理由は次の章で説明しています。)したがって、ミクロな世界を明らかにするのとは別に、構成要素が集まったマクロな世界ではどのような現象が現れるのか、ということを考えたり、ミクロな世界と我々が経験しているマクロな世界での現象とを結びつけたりする必要があります。
ミクロな世界とマクロな世界を結びつける、というのは非常に難しい問題です。なぜなら、マクロな世界をなす多くのミクロな構成要素(たとえば個というオーダーの個数の分子)を考える際、それらに対応する一つ一つの粒子の位置や速度を全て正確に把握することは大変難しいからです。したがって、複雑で構成要素が多いマクロな系[2]の性質をミクロの構成要素一つ一つの運動に基づいて議論することは不可能だと考えられます。
ところが興味深いことに、構成要素の数が極めて多くなると、ある状態の問題の扱いは逆に簡単になってしまうのです。ある状態の問題とは、マクロな系が平衡状態という特殊な状態にあるときの問題のことです。(平衡状態についての説明は、別の記事「非平衡とは何か」の冒頭にあります。)平衡状態では、粒子一つ一つの運動に着目しなくても、マクロな物理量の振る舞いを正確に特徴付けることができて、マクロな問題の扱いが容易になります。
平衡状態が持つ特殊な性質とは何でしょうか。実は、マクロな系が一度平衡状態に落ち着くと、系の環境や平衡状態に至る前の系の様子といった系の詳細に依存せず、普遍的に系のマクロな振る舞いが決まることが経験的にわかっています。
平衡状態におけるミクロな世界に基づいてマクロな世界を記述するほぼ完全な学問体系は、平衡統計力学と呼ばれています(非平衡状態に関しては非平衡統計力学という学問分野があります。こちらはまだ完全ではありません)。平衡統計力学は、どんな問題にも適用可能な万能の方法というよりは、様々な考察や解析の基礎になる考え方の体系です。また平衡統計力学は、様々な物理量を細かく計算するよりも、系のミクロな詳細に依存しない、様々な階層の普遍的な振る舞いを探し出し、それらを的確に記述することを目指した学問です。統計物理学というのは、統計力学よりも一般的な、大きく隔たった階層の物理を結びつけるための営みを指します。
2.で平衡状態においては、粒子一つ一つの運動に着目しなくてもマクロな物理量の振る舞いを正確に特徴付けることができると述べました。そのマクロな世界を記述する際に用いるのが確率です。なぜ、確率的な要素がないはずの物理系を記述するのに確率を用いることができるのでしょうか。それは、物理量のゆらぎが小さければ、確率モデルを用いていても一回の測定で期待値[3]とほぼ等しい値を得ることができて、物理量の測定結果に関してかなり厳密な予測をすることができるためです。物理量のゆらぎについては後で詳しく説明します。また、解説PDFではこの議論の詳細かつ一般的な説明を載せています。
なお、統計物理学では既に知られている量子力学(あるいは古典力学)と平衡熱力学の双方と辻褄の合うように適切な仮定を行います。もちろんこのような仮定の取り方にはいくつかのレパートリーがありますが、ここでは自然なものを軽く紹介します。一つ目の仮定はマクロな量子系の元では、ある平衡状態に対応するような条件のもとで許される量子状態のほとんど全てが、マクロな物理量の測定の元ではほとんど区別できないということです。このような区別できない大多数の状態を典型的な状態と呼びます。つまり熱力学における平衡状態の性質は、このような典型的な状態が持つ性質であると考えることにするのです。この仮定のもとで、エネルギーがほぼ特定の値を取るような状態の全てが等しい確率で出現すると仮定します。これを等重率の原理と呼びます。このような仮定の上で、物理量のゆらぎは確かに小さくなり、確率的なモデルで物理が説明できるようになります。
ここで、ゆらぎが小さくなるイメージを掴む一例として、参考文献の2で挙げられているサイコロの例を引用します。
サイコロの説明に入る前に、まず物理量のゆらぎ[4]という量について説明します。ゆらぎというのは、大まかに言うと、ある物理量の測定値が期待値からどの程度ずれているかということを表しています。定義は本によって微妙に異なりますが、ここでは、
と定義することにします。(ただし、は物理量の期待値を表しています。)
では、全ての目の出る確率がで等しい理想的なサイコロを個用意します。これらを同時に、お互いに干渉し合わないように投げます。その結果出た目の平均をとします。このとき、サイコロ一個投げた時のの期待値はで、
と計算できます。一方、ゆらぎは前に示した定義から(計算は省略します[5])、
となります。この式より、サイコロの数が多くなるとゆらぎが小さくなることがわかります。ここで、という構成要素が多い物理系の場合を考え、測定精度をとします。このとき、(チェビシェフの不等式[6]より)測定値が測定誤差の範囲内で期待値に一致しない確率を計算すると、以下になります。したがって、サイコロを個同時に投げる実験を一回行えば、期待値にほぼ一致する測定値が得られるとわかります。
さらに詳しい説明は、解説PDFの方をご覧ください。また、上記の文章は、以下に記した参考文献を参照させて頂きました。この記事の内容に興味を持たれた方は、そちらを参照して下さい。
[1] 田崎晴明. (2008). 『統計力学I』. 新物理学シリーズ. 培風館.
[2] 田崎晴明. (2018). 「統計物理学の基礎をめぐって」. https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/pdf/statphys.pdf
[3] 竹内一将. (2021). 統計力学I 講義資料(非公開)