非平衡とは何かを語るには、そもそも平衡とは何かということを語らなくてはなりません。平衡とは熱力学などに登場する重要な概念です。熱力学では、ピストンの中の気体など、考えている対象のことを系と呼び、系の外側を外界といいます。ふつう系は外界とエネルギーや粒子をやりとりします。ところがほとんどの場合、系をしばらく放っておくと、最終的には温度や圧力、体積などが一定となる状態に到達することが知られています。この状態のことを平衡状態といいます。熱力学はこの平衡状態の記述のほかにも、ある平衡状態から別の平衡状態への遷移の仕方まで見事に説明しています。
しかし現実には平衡状態に達しきっていないような系を考えたい場合があります。たとえば自然界の大気や水の循環は、平衡に達していない現象の例です[1]。また系が小さすぎると平衡状態からのわずかなずれ(熱ゆらぎ)が無視できないこともあります。たとえば生物の細胞は良い例です。このように平衡状態に達していない系の状態のことを非平衡状態といいます。非平衡状態は従来の熱力学で記述することができず扱いが難しいので、まだしっかりとした枠組みが出来上がっていません。「非平衡統計力学」とよばれる分野では、このような非平衡状態を統計力学的に扱う一般的な枠組みは存在するのか、存在したとしてそれはどのようなものかが研究されています。
非平衡状態の扱いの難しさは実は19世紀には知られていました。この時代にはすでに熱力学はほぼ確立しており、今度は熱力学を分子の運動を支配する力学(古典力学[3])から再現しようという試みが始まっていました。しかし熱力学と力学には時間の捉え方について根本的な違いがあります。
力学の方程式の特徴として、時間を反転させても同じ式が成立する(時間反転対称性を持つ)ということが挙げられます。つまり個々の分子の運動を見る際、それが逆再生されても違和感がないということです。ところが熱力学にはエントロピー増大則とよばれる法則があり、これによって系の逆再生には違和感が生まれます。
この法則の前に、そもそもエントロピーとは何か説明します。ここで言うエントロピーとは、平衡状態に対して定まる量の一つで、文字で表されます[4]。目で見て分かるというものでもないので、そういう量があると想像しながら読んでみてください。いま考えている系と外界が平衡状態にあるなら、系のエントロピーと外界のエントロピーを定義できます。そして系と外界のエントロピーを足すと、系と外界を合わせた全系のエントロピーになります。エントロピー増大則というのは、この全系のエントロピーは時間とともに増大するか一定のままである(減少しない)という法則です。逆に言えば、このような法則が成り立つようなエントロピーという量がきちんと定義できるということでもあります。
その上で系の逆再生を考えてみましょう。ある平衡状態にあった系が外界とエネルギーなどをやりとりして、別の平衡状態に達したとします。このとき、のそれぞれにおける全系のエントロピー、を比べると、エントロピー増大則より となります。ここでは等号が成り立たなかった場合、つまり を考えます。この過程を逆再生すると、系は平衡状態から平衡状態に遷移することになります。このとき全系のエントロピーはからに減少します。これはエントロピー増大則に反しているので、熱力学的にはありえない現象です。つまり熱力学的には、系の逆再生はエントロピーの減少を意味するのでどうしても違和感がある(時間反転対称性を持たない)ということです。
この「逆再生の違和感」の有無が、熱力学と力学を隔てる大きな壁となっています。なぜ個々の分子の運動を逆再生しても違和感がないのに、分子が集まった系を逆再生すると違和感が生まれるのでしょうか。
系が平衡状態に到達すると考えられる場合には、この逆再生の違和感がどこから生まれるのか説明することができます(文献[1])。まず等重率の原理と呼ばれる原理を仮定します。これは系に含まれるすべての分子の位置と速度が指定された状態(以下「ミクロな状態」と呼びます)がすべて同じ確率で実現するということです。ここで言うミクロな状態は、温度や圧力などが指定された「マクロな状態」とは異なるので注意が必要です。ミクロな状態としては違っていても、系が同じ温度、圧力、体積などを持っていれば、それはマクロな状態としては同じということになります。
その上で、圧倒的に実現確率の高いマクロな状態が存在すると考えます。この「圧倒的に実現確率の高いマクロな状態」というのが平衡状態というわけです。要は、系を構成するミクロな状態がランダムに変わっていくとして、単純に圧倒的に実現しやすいこの平衡状態に到達すると考えているのです。このとき平衡状態以外の(実現確率の低い)状態に移る確率は極めて低いので、系が平衡状態に「落ち着く」という表現もできます。
しかし系が平衡状態に到達するとは限らないときには、等重率の原理を使った説明が成り立ちません。それどころかエントロピー増大則に反するような現象が起こりえます。その現象を紹介する前の注意ですが、実は先ほどまで考えた平衡状態のエントロピーは、非平衡状態でも使えるように拡張ができます。ここからはその拡張されたエントロピー(統計力学的エントロピー)[5]を考えます。もちろん平衡状態では、この統計力学的エントロピーは先ほどのエントロピー(こちらを熱力学的エントロピーと呼びます)と同じ意味だと思ってもらって構いません。
この統計力学的エントロピー(以下、単にエントロピーと書きます)が増大している系を考えます。そしてある時刻にこの系のすべての分子の速度を逆向きにすることを考えます。ここで、力学では逆再生しても違和感がないことを思い出してください。つまり系は逆再生されて元に戻っていき、全体で見るとエントロピーが減少しているように見えます。これが1876年に発表されたロシュミットのパラドックスです。実際に計算機でシミュレーションしてみると、粒子数が20000個の場合にはエントロピーの減少は見られませんが、粒子数が2500個の場合には確かにエントロピーが減少していることが確認できます(文献[2])。これは明らかにエントロピー増大則に反した現象です。こういうことが起こりうるのに、どうして20000個のような十分粒子数が多い系ではエントロピーが増大するのでしょうか。
現在、ロシュミットのパラドックスはゆらぎの定理の発見によって部分的に解決されています。またゆらぎの定理で扱えないような一般の古典的な系のエントロピー増大については、解析力学(力学の発展版)を用いた説明(文献[2])があります。これらについて知りたい方は是非解説PDFをご覧ください。
[1] 田崎晴明(2008).『統計力学Ⅰ』.培風館
[2] 早川尚男(2007).『非平衡統計力学』.サイエンス社